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仙台高等裁判所 昭和24年(ネ)35号 判決

控訴代理人は、「原判決を取消す。秋田県山本郡響村仁鮒国有林字久沢のうち、原判決添付図面<省略>記載の甲地域のうち(イ)(赤字の分)、(ロ)、(ハ)、(ニ)、(ホ)、(ヘ)、(イ)(赤字の分)点を順次結ぶ線で囲まれた地域内に生立する杉、檜立木につき、控訴人が十分の七の割合による分収権を有することを確認する。訴訟費用は、第一、二審とも被控訴人の負担とする。」との判決を求め、「原審において請求した爾余の地域に生立する杉、檜立木につき十分の七の割合による分収権を有することの確認を求める部分は、これを減縮する。」と述べ、

被控訴代理人は、控訴棄却の判決を求め、控訴人の右請求の減縮に異議ないと述べた。

(以下原判決添付図面記載の甲地域のうち、(イ)(赤字の分)、(ロ)、(ハ)、(ニ)、(ホ)、(ヘ)、(イ)(赤字の分)点を順次結ぶ線で囲まれた地域を単に甲地域と略称する。)

当事者双方の事実上の主張は、

控訴代理人において、

一、原判決摘示事実中、

(1)、二枚目裏六行目に「明治十一年本部分林の存在を告示し」とあるのは、「明治十一年当時の分収権利者の部分林の区域を告示し」という趣旨である。

(2)、二枚目裏六行目に「昭和十四年当時の」とあるのは、「明治十四年当時の」の誤記である。

(3)、二枚目裏六行目から八行目に「当時の本件部分林の権利者であつた岸部新一郎、吉田謹一両名は、被告に部分林引直方を願出で」云々とあるのは「当時部分林であることは、被告の方でも認めていたのであるが、要するに、帳簿に登載して認証して貰いたい旨申請した」という趣旨である。

と述べ、

被控訴代理人において、

一、原判決摘示の控訴人主張事実中、

(1)、秋田県山本郡響村仁鮒国有林字久沢の内通称滝の沢(原判決添付図面記載の甲、乙、丙、丁地域……原判決添付図面には丙地域の表示が脱落しているが、原審における昭和二十一年八月十一、二日及び昭和二十二年十月八日為された各検証調書及び添付図面によれば、双方主張の丙地域は乙地域南部の黄色で採色された部分にあたる……以下単に甲、乙、丙、丁地域と各略称する。)が、旧秋田藩の御直山であつたことは争わない。

(2)、右国有林のうち、乙、丙地域だけが空山同様であつたのである。

(3)、文政年間吉田貞蔵、宇野矢一右衛門の両名が秋田藩の植樹奨励の布達に基き部分林として植林を届出で、その許可を得たのは、乙、丙地域についてである。

(4)、原判決摘示の(イ)については、杉苗を植立てたことは争わないが、植立てたのは、乙丙地域である。但し、植立てた本数は明かでない。

(ロ)、(ハ)についても、すべて乙丙地域についてであるが本数は明かでない。

(5)、文政七年九月秋田藩十分の三、植立者十分の七の割合により分収すること、及びその分収実施時期を八、九十年以上に成木の後とすることと定めたのも乙丙地域の立木についてである。

(6)、明治十四年当時の部分林の権利者であつた岸部新一郎、吉田謹一の両名から部分林引直方の願出があり、これに基いて本件部分林の引直をしたことは認める。

(7)、明治十八年二月現地調査の結果に基き、杉立木一万五千本、檜立木五十本について三官七民の割合による部分林の下渡を許可してこれを部分林台帳に登録したというのも乙丙地域についてである。但し、本数は概数であつて、正確に調査した本数ではない。

(8)、部分木証券を下附したのが明治十八年四月であることは争わない。但し、それは乙、丙地域に関するものである。

(9)、その後岸部新一郎、吉田謹一から木村清三郎までの権利譲渡関係については、争わない。

(10)、明治二十四年一月から明治二十七年十月までの間に七回に亘つて分収を実施したことも争わないが、その地域は乙丙地域である。

(11)、三浦竹松が木村清三郎から部分林の権利を譲受け、その登録を得て権利者となつたことは争わない。

(12)、三浦竹松の死亡、伝治の家督相続、伝治の死亡、控訴人竹也の家督相続の点はいずれも争わない。

二、本件係争地を含む滝の沢官林は、明治十一年改租処分によつて官林に編入されたが、明治十四年二月吉田貞右衛門、岸部新一郎の両名から、滝の沢地内に、文政七年九月中旧藩から許可を得て自費植立の部分木ありとして、能代木山方以来覚(乙第一号証)を添え官林地内植立木の書上をなし、ついで明治十七年十月部分木仕付条令(明治十一年内務省布達甲第四号)に基いて木券の下附方を秋田山林事務所長に願出た。同所長は実地調査のうえ同年十一月二十日植立箇所の区域を示した図面及び官林立木中、部分木に引直すべき表を添付して農商務省山林局長に経伺し、同局長は右添付図面のとおり明治十八年一月二十四日附第三二〇号をもつて引直方を聞届ける旨の指令を出し、右指令に基き同所長は、同年二月部分木台帳に登載し、同年四月二十日木券を下附したのである。而して右引直をした部分林の範囲は、前記書上げの際願出人から証拠として添付された木山方以来覚(乙第一号証)によれば、「久沢の内滝の沢北平水落次第但北は(乙第二号証中覚との対照により西の誤記と認められる。)寄木台より東は長坂倉下沼限り小沢と母絵図面朱引の通り」とあつて、前記山林局長へ経伺の図面と符合するし、又明治九年中、旧藩時代植立を許可された区域につき、秋田県令石田英吉から境界を指示された際の添付図面(乙第八号証)と一致し、これが被控訴人の主張する乙丙地域の実地である、その後明治二十七年八月、当時の権利者宮越勘兵衛の代理人から秋田大林区署長に対する部分林の境界仕分願があつて実測した結果、部分木証券に記載した面積四十五町六畝二十歩は願出人書上げのまま記載したもので、実地は三十九町六反歩と確定し部分木台帳を訂正した。しかし、宮越勘兵衛はこれを不服として、明治三十六年中、秋田地方裁判所に部分木権利確認の訴訟を提起し、乙丙地域のほか、控訴人主張の甲地域中、中の沢とム沢間の地域六町七反歩を部分林の区域であると主張したが、控訴、上告の末、部分林は本件において被控訴人の主張する乙丙地域であると確定せられたのである。そこで宮越勘兵衛は明治四十年十月三十日右実測面積を明記した契約証書を作成してその権利を木村清三郎に譲渡し、該契約書を添付して部分林分収権の名義書替を願出て、同年十二月二十八日その旨許可され、次で木村清三郎は明治四十一年七月中その権利を控訴人の先々代三浦竹松に譲渡し、両名から本件乙丙地域の実地面積を明記した分収権の譲渡による名義書替を願出て、同月二十三日その旨許可されたものである。従つて三浦竹松の譲り受けた部分林は本訴において控訴人の主張するような甲地域を含まないことは明かである。

本件部分林の区域は前記のとおり明確であるが、立木数については、木券下附当時も、面積実測の際も毎木調査をしなかつたので、願出人の書上のまま部分林台帳に登載され、数次に亘り分収を実施して来た控訴人先々代は、明治四十一年九月十三日部分林内の残立木全部即ち杉立木千九百八十七本、檜立木百五十四本、松立木百十九本、合計二千二百六十本の分収払下を受けてこれを皆伐搬出したので、明治四十二年六月三十日本件部分林伐採済による返地届を能代小林区署に提出した。よつて同署長は明治四十三年二月十四日右返地届を添えて部分林皆伐箇所調査書を秋田大林区署に提出し、同署は同年三月二日部分林台帳を右返地届に基いて削除したのである。右返地に先立ち、明治四十一年十二月部分木造材搬出中、控訴人先々代は、部分林地内における雑木等の伐採をも願い出たので、同署長は同年十二月二十二日無償でこれが伐採々取を許可し、控訴人先々代は、部分林の分収及び雑木の採取等部分林内の権利の一切を行使し返地したのであるから、これにより被控訴人と控訴人先々代との関係は全部終了したのである。従つて控訴人先代伝治を経てその相続人となつた控訴人においても、本件部分林に関する何等の権利をも有しないのである。

三、本件係争山林は現在国有林として被控訴人が占有管理しているものであつて、部分林として占有管理しているものではない。

とのべたほかは、原判決の事実摘示のとおりであるからここにこれを引用する。

<立証省略>

三、理  由

秋田県山本郡響村仁鮒国有林字久沢の内通称滝の沢(原判決添付図面記載の甲、乙、丙、丁地域以下単に甲、乙、丙、丁地域と略称する。)が旧秋田藩の御直山であつたこと。その範囲が滝の沢全域(甲、乙、丙、丁地域)であるか又は滝の沢のうち乙丙地域に限るかは別として、(1) 、少数の天然杉成木、相当数の天然杉稚樹、及び天然小檜が僅あつただけで、空山同様であつたこと、(2) 、文政年間吉田貞蔵、宇野矢一右衛門の両名が旧秋田藩の植樹奨励の布達に基き部分林として天然稚樹の育成及び新規杉苗植立木をする目的で植林を届出てその許可を得たこと、(3) 、右両名が文政二卯年から同四巳年までの間に杉苗を植立て、更に文政七申年九月中引続き植立方を願出たところ、旧秋田藩は木山方山県伊織等をして実地調査をなさしめたうえ、右杉苗の植立の事実を認め、引続き植立の許可をしたのでその後年々杉苗を植立てたこと、(4) 、旧秋田藩は右植立の許可をする際、自然杉三尺廻以下小杉共百十九本、天然小檜十本を運上銭七貫文で右両名に払下げ、右部分林については、右払下木を含め、秋田藩十分の三、植立者十分の七の所謂三官七民の割合による分収をすること及び分収実施時期を八、九十年成木の後とすることと定めたこと、(5) 、右部分林は廃藩置県後秋田藩から被控訴人国に移譲されたこと、(6) 、明治十四年岸部新一郎、吉田謹一の両名から被控訴人に対し部分林引直方を願出たので、明治十八年二月現地調査の結果に基き、杉立木一万五千本、檜立木五十本について三官七民の割合による部分林の下渡を許可してこれを部分林台帳に登録し同年四月部分木証券を下附したこと、(7) 、岸部新一郎は松野克一に、吉田謹一は小嶋堅治に、克一及び堅治両名は板倉幾蔵に、幾蔵は宮越勘兵衛に、勘兵衛は木村清三郎に、清三郎は明治四十一年七月十七日控訴人先々代三浦竹松に順次部分林に関する権利を譲渡し、竹松は同年八月四日その登録を得て、権利者となつたこと、(8) 、被控訴人が明治二十四年一月から同二十七年十月までの間に七回に亘つて分収を実施したこと。(9) 、竹松が昭和十年二月十三日死亡し、控訴人先代伝治がその家督相続をなし、伝治が昭和十四年七月二十一日死亡し、控訴人がその家督相続をしたこと。(10)、宮越勘兵衛が明治三十六年中国を被告として秋田地方裁判所に、乙丙地域及び甲地域のうち、原判決添付図面記載のム沢以北の地域合計反別四十五町六畝二十歩内に生立する杉一万六百六本、檜五十本につき三官七民の割合による部分林の分収権のあることを確認する旨の訴(秋田地方裁判所明治三十六年(ワ)第九五号事件)を提起し、その請求原因が勘兵衛は明治二十三年二月八日右地域内に生立する杉一万五千本、檜五十本に対し三官七民の割合による部分木所有権を有する板倉幾蔵からその権利を譲受け爾来同二十七年七月二十五日までの間に国の許可を得て合計四千三百九十四本の杉立木を伐採分収し残木杉一万六百六本、檜五十本につき分収権を有するから、これが確認を求めるというにあること。右訴訟は、第一審秋田地方裁判所においては、勘兵衛の請求が認容せられたが、国から宮城控訴院に控訴(同院明治三十七年(ネ)第二号)した結果、同院においては部分林の地域は乙丙地域に限らるべきものとして一審判決を廃棄し、勘兵衛の請求を排斥したところ右判決に対して、勘兵衛から大審院に上告(明治三十八年(オ)第五六一号事件)したが、明治三十九年四月九日上告棄却となり右判決は確定したこと。以上の事実は当事者間に争がない。

よつて、まず被控訴人の既判力の抗弁について判断する。

宮越勘兵衛と国との前記訴訟(以下前訴と略称する。)が昭和四年十月一日から施行せられた大正十五年法律第六十一号民事訴訟法中改正法律(以下旧法と略称する。)施行前に確定したものであることは前記のとおりであるが、旧法には、右改正法律による改正規定(以下新法と略称する。)第二百一条のような規定がないから、旧法当時確定した前訴の判決の既判力は、口頭弁論終結後の特定承継人である控訴人の先々代三浦竹松及びその一般承継人である控訴人に対し及ばないものと解すべきである。被控訴人は大正十五年法律第六十二号民事訴訟法中改正法律施行法第二条により旧法当時の確定判決でも特定承継人に対して既判力を及ぼすものと解すべきである旨主張するけれども、右第二条但書によれば、旧法により既に生じた効力は、新法の施行により影響を受けるものではないから、前訴判決の確定により、当時既に、訴訟物である権利の特定承継人に対し既判力の及ばない効果は確定し右効果を有する権利を取得した控訴人先々代三浦竹松及びその一般承継人である控訴人の法律上の地位は、新法の施行により何等影響を受けるものではない。従つて、前訴と本訴の訴訟物の範囲が同一であるかどうかについて判断するまでもなく、被控訴人の既判力の抗弁は採用できない。

よつて本件主要の争点である本件部分林の範囲が甲、乙、丙地域であるか、乙、丙地域に限られるべきものであるかの点について判断する。

一、成立に争のない乙第一号証には、文政七年宇野矢一右衛門、吉田貞蔵両名に対し許可せられた部分林の範囲として「山本郡小掛御直山久沢之内滝ノ沢北平水落次第但北は寄木台より東者長坂倉下沼限り小沢と母」との記載があること。

二、右「但北は寄木台より」との記載は、成立に争のない乙第二号証中の植立木証書写書上及び乙第三号証の一の記載の対照上「但西は寄木台より」の誤記であること。

三、弁論の全趣旨によれば、前記山本郡小掛御直山久沢とは現在の秋田県山本郡響村仁鮒国有林字久沢であること。

四、原本の存在及びその成立に争のない甲第一号証の七、八によると、甲地域に生立する杉立木は大部分文政二年以前に生立したものであること。

五、原本の存在及びその成立につき争のない乙第十八号証の一、二によると、岸部新太郎、吉田貞右衛門両名は、明治九年十一月甲地域が本件部分林の範囲に属しないことを認めていたこと。

以上の事審が認められ、右事実と成立に争のない乙第三号証の一の図形並に原審及び当審における検証の結果(原審は第一、二回)とを綜合し、更に原審証人竹内順治の証言を斟酌するときは、本件部分林の範囲は、乙丙地域に限られ、甲地域には及ばないものと認めるに十分である。以上の認定に反する甲第一号証の六、乙第九号証の各記載、原審及び当審証人畠山佐市、蓮沼馨蔵、当審証人石山長五郎、増村卯助(第一、二回)の各証言、原審における鑑定人増村卯助の鑑定の結果は、いずれも前記証拠に照し採用しがたく、その他に以上の認定を覆し控訴人主張の事実を認めるに足る証拠はない。

もつとも成立に争のない乙第一号証中には「杉苗木三万八千本余植立いたし云々」と、乙第二号証、第六号証、第十九号証中には、「反別四十五町六畝二十歩、部分木杉一万五千本、檜五十本」等の各記載があり、又明治十八年二月現地調査の結果に基き杉立木一万五千本、檜五十本につき三官七民の割合による部分林の下渡を許可してこれを部分林台帳に登録したことは被控訴人においてこれを認めるところであつて、控訴人は、本件部分林の範囲が乙、丙地域に限られるものであるとすれば、右乙第一号証記載の杉三万八千本の植立は全く不可能であり、又右乙第二号証、第十九号中の反別四十五町六畝二十歩、部分木杉一万五千本、檜五十本の記載に比し、反別著しく小となり、到底右本数の杉及び檜の生立する余地がない旨主張するけれども、原審証人竹内順治の証言並に原審及び当審における検証の結果によれば、乙、丙地域に杉苗木三万八千本以上を植立することは可能である事実が認められ、又乙第二号証中の図面記載の植立箇所は原審及び当審における検証の結果に徴すれば、乙丙地域に該当することが認められ、しかも、成立に争のない乙第六号証によれば、乙丙地域の実測面積は三十九町六反歩であることが認められるのであるから、右乙第二号証第六号証、第十九号証中の「反別四十五町六畝二十歩、部分木杉一万五千本、檜五十本」等の各記載及び右杉、檜立木の部分木台帳への登録は、実地に測量し又は毎木調査をしたものではなく概数を記載したものと認めるほかはないから、いずれも前記認定を覆し控訴人の主張を認める資料とすることはできない。

控訴人は、成立に争のない乙第一号証中、「北平」とあるのは「両平」の誤記である。もし、誤記でないとすれば、何人かにより書き入れられたものであると主張するけれども、これを認めるに足る証拠はない。

而して、本件部分林の範囲が乙丙地域に限られ、甲地域に及ぼないことは、以上認定のとおりであるが、元来成立に争のない乙第十四号証によれば、宮越勘兵衛が控訴人の先々代竹松の前主木村清三郎に部分林に関する権利を譲渡したのは、明治四十年十月二十日であつて前記勘兵衛と国との間の訴訟(前訴)が確定した後であるから、反証のない本件では、勘兵衛が清三郎に譲渡した権利は、前訴により確定せられた乙丙地域の範囲に限られ、従つてまた控訴人の先々代竹松が清三郎から譲り受けた部分林に関する権利もまた乙丙地域の範囲に限られ、甲地域には及ばないものというべきである。

以上の次第で甲地域は部分林の範囲に属せず、控訴人の先々代竹松は甲地域につき部分林に関する権利を有しないから、これを有することを前提とする控訴人の本訴請求は失当で、これを排斥した原判決は相当である。

よつて、本件控訴は理由がないからこれを棄却すべきものとし、民事訴訟法第三百八十四条、第九十五条、第八十九条に則り主文のとおり判決する。

(裁判官 谷本仙一郎 猪瀬一郎 石井義彦)

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